男はセックスを点で考えるが、女は線で考える

2013.11.18

セックスレスについて我々が語った日経ウーマンオンラインのこの記事へのアクセス数は、たぶんそれまでの回とは桁が違うくらい多くて、そのことは、女が感じている「求められないことに対する不安/不満」がいかに大きいかということを示しているように思う。

厄介なのは、女のその不安に、まったく気付いていない男が多いということだろう。

男はセックスレスという問題を軽視しがち(または諦めがち)で、女から見ると、セックスがないこともさることながら、軽視している(諦めている)その態度が許せない。

 

上の記事を改めて読んでいる間、これまでに見聞きしたセックスレスにまつわるエピソードが頭の中をぐるぐると巡り、ふと浮かんだのが、

「男はセックスを点で考えるが、女は線で考える」

ということで、これには2つのレイヤーがある。

 

★★

まず、セックスをしている最中というレイヤーでの「点と線」。

男は、「いつ射精するか」ということ、つまりいわゆる「いく瞬間(=点)」でセックスを捉えがちだ。

そのことが中心にあるから、「(俺が)出したくないときはしたくない」「フィジカルな性欲が沸かないと、できない」となる。

「俺、性欲があんまりないんだよね」と言ってセックスを拒否するという、件の記事の彼がまさにこれだ。

実際には、男だってセックスをただ「射精するためにしている」わけではないはずなのだが、おそらくイメージとして我々のなかにそういう単純化されたものが植えつけられているのだと思う。

 

対して女は、前後のコミュニケーションもふくめた全体(=線)をセックスとして捉えているような気がする。

これは、女がセックスにおけるオーガズムを軽視している、ということではない。あくまで捉え方の話である。

 

この違いは男女の身体の生理的な部分も要因のひとつにはなっているのかもしれないが、「だから擦れ違いを放置してもいい」という免罪符にはならない。

「男ってそういう生き物だからさー」と、都合の良い時だけ似非進化論を持ち出す御仁には、「俺は生物として本当に勝負できるのか?」ということを自分の肉体に問いかけてみろと言いたい。

 

★★★

それはさておき、もうひとつは2人の関係性というレイヤーでの「点と線」である。

上で述べたように、男は「フィジカルな性欲」のみに囚われがちなため、結果的に「今日/今夜/今、セックスするか/しないか」という、徹底して即時的な点の事柄としてセックスを捉えることになる。

だからセックスレスになっても、「いつからしてない」ということを全然憶えていなかったりする。

 

ただどんなものにも例外というのはあって、私の男友達B(既婚)は飲み会の席で、

「嫁とセックスした日は手帳の日付に○つけて、たまに確認してる。それで『この一年、○が全然ついてねえじゃん!』とか思って落ち込むんだよね。」

と話していて、その場にいた皆が笑ったのだが、彼は男のなかではかなり誠実にセックス(レス)に対して向き合っている方なのだと、今になって思う。

こうやって記録をつける男はたぶんすごく稀だろう。多くの男は「点」のまま放置する。

 

対して女は、セックスという点を、「2人のこれまで/これから」という長い時間軸上にプロットして、それを線でつなげる。

例えば、同じく高校の女友達K(既婚)は妊娠期間中に、

「半年もセックスしてないから、『しといたほうがいい』かなと思って提案してみた。けど、旦那が怖がってできなかった。」

と言っていた。この、「しといたほうがいい」という発想が男にはない。

 

彼女は出産後しばらくしてからも、

「もう一年半セックスしてないから、さすがにこの先のことを考えると『やばい』と思って試みた。けどその時は、全然濡れなくてできなかった。」

と何だか生々しいことを教えてくれた。

母乳をあげている期間は生理が来ないので性欲自体がなくなることが多いらしいのだが、重要なのは、彼女自身には性欲がなくても、2人のこの先の関係性(=線)のために「しといたほうがいい」と考えているところだろう。

ちなみにこの期間、彼女の夫は徹底して受け身の姿勢を貫いていた。

彼は自分のその時の気分(=点)を優先していたのだと思う。

 

こうやって外から見ると、彼のことを一方的に責めるたくなるのだが、「どっちが悪い」とかそういう問題でもないような気もしている。

ラジオでおなじみの「いつもの先輩」(男性、既婚)は日経ウーマンの記事を読んで、

「だいたいさ、

『私たちセックスレスになってるけど、私はもっとしたいんだけど』

『よし、じゃあ、これからは週に三回やろう』

『うん、嬉しい』

みたいにうまく収まることってありえるのか?」

と言っていた。まあ、これは単純化し過ぎではあるが、確かに、話し合いによって身体的/生理的な問題を解決できるかどうかというと、なかなか難しいのが現実だとは思う。

それでも話し合わなければ絶対に状況は改善しない。

しかし男が話し合いすらも拒否するのはなぜなのか。

 

★★★★

男女の違いは、当たり前だが生殖機能の話に近づけば近づくほどハッキリしてくるはずで、逆に言うとそこから遠いところにある男女差のほとんどは「社会的/文化的に作り出されたもの」でしかない。

だがセックスレスについて考えていると、その距離感が歪んでくる。

 

冒頭に書いた、女の感じる「求められない不安」の根っこにはおそらく、「女は求められてこそ」的な通念としての女らしさが鎮座している。

また、セックスレスになった時に、男が挿入なしのセックス(のようなもの)をやろうとしないのは、「やるなら勃起して、フィニッシュまでいかなきゃ男として情けない」という「男としてのプライド(=男らしさ)」に拘っているからだと思う。

セックスレスに関する話し合いを男が拒否するのも、「セックスしたくない/できない→男らしくない」という思い込みを言葉で確認するのが苦痛だからだろう。

 

そして、「女の求められない不安」も「男としてのプライド」のどちらも、姿としては「生殖機能を発揮する場であるセックスがない」という形で問題化する。

つまりセックスレスは、ジェンダー(社会的性差)とセックス(生物学的性差)の結節点にある問題だ。

というか、ヒトにとってのセックスがそもそもその位置にある気もするし、もっと言うと恋愛そのものが結節点なんじゃないかとも思えてくる。

 

・・・何だか話が広がってきてしまったので、今回はこの辺りで放り出して、続きはそのうち二軍ラジオで話してみたい。

 

とにかく今ひとつだけ言えることは、「全部つながってるから!」ということだ。(了)